このウェブサイトは、大分県に現存する築160年の古民家の再生を目的に、この土地に刻まれた歴史を細かく紹介しています。

福沢諭吉と伊東茂右衛門

福沢諭吉(1835-1901)は、幕末から明治時代にかけて活躍した日本を代表する教育者です。中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の次男として生まれました。

20才で大坂の「適塾」に入門、蘭学に励み22才で塾頭を務めました。翌年には中津藩に命じられて江戸の藩屋敷で蘭学塾を開きます。これが後の慶應義塾となります。

蘭学塾と並行して、1860年、幕府使節団の一員として咸臨丸で太平洋を渡りアメリカ合衆国を視察。翌々年、イギリス等ヨーロッパ6ヶ国を歴訪、1867年には再びアメリカを訪れています。

慶應4年(1868)、塾名を慶應義塾とし、以後学校運営に注力します。

活動は学生の教育にとどまらず、「学問のすすめ」「西洋事情」などの出版物はベストセラーとなり、当時の日本人全体に影響を与えることとなりました。「学問のすすめ」の販売部数は300万部で、国民の10人に1人が買ったと言われています。

また、公衆の前で自由に発言する「演説」をすすめ、明治7年(1874)6月27日、慶応義塾の三田演説館(国重要文化財)で日本初の演説会が行われました。これを記念して毎年6月27日は「演説の日」となっています。英語のスピーチを「演説」と訳し日本に普及させたのは福沢諭吉です。

言論で政界財界にまで大きな影響を与えていた諭吉は明治15年(1882)、日刊新聞「時事新報」を創刊します。その時、初代編集長に就くのが伊東茂右衛門です。

『福沢全集』続 第6巻,岩波書店,昭和8-9より伊東茂右衛門宛の頁

福沢諭吉の手紙
伊東茂右衛門宛 年未詳八月二十一日

伊東茂右衛門宛 年未詳八月二十一日

益御清寧奉拝賀候 陳ば 老生事昨日来少々気分あしく引籠居候もし御閑暇に御座候はゞご来訪被下間敷哉久し振りにて将棋を思出し一戦御相手を願度御都合奉伺候匇々

八月二十一日  諭 吉

伊 東 様


※益御清寧奉拝賀候=手紙の書き出しの挨拶文
※陳(のぶれ)ば 本文の最初に使う言葉 さて
匇々(そうそう)

『福沢全集』続 第6巻,岩波書店,昭和8-9より伊東茂右衛門宛の頁

福沢諭吉の手紙
伊東茂右衛門宛 年未詳九月三十日

昨夜は態々御来訪被下小幡氏の金子今日遣し候由就ては今泉秀太郎療治の代金二十一円今朝小幡へ納め候積りにて用意いたし候へ共渡して又請取も無益の手数なれば後刻彼方より此方へ遣候金額の内より二十一円丈引去り候様致度此段乍御面倒先方へ御通知奉願候早々頓首

九月三十日  福澤諭吉

伊東茂右衛門様


※態々(わざわざ)
※小幡=英之助(おばたえいのすけ)日本初の歯科専門医 明治7年、東京府京橋区采女町(現・中央区銀座五丁目)で歯科診療所を開業 中津出身
※金子(きんす)
※今泉秀太郎(いまいずみひでたろう)時事新報の挿し絵と風刺画を担当 慶応元年(1865)生まれ、中津出身、諭吉の妻の甥にあたる 幼少期東京の福沢家で養育された。明治16年、落馬して歯を折る大怪我をした。手紙の内容はその時のものか。怪我のため秀太郎の慶應義塾卒業は翌明治17年4月に延びている。
乍御面倒 ご面倒ながら
※早々頓首(そうそうとんしゅ) 結語、以上謹んで申し上げます

福沢諭吉を語る伊東茂右衛門

伊東茂右衛門 直話

私が福沢先生の所へ参りましたのは、明治11年であります、何も学問をしようと云う訳ではなく、唯先生の所に居て、世間の模様を知りたいと云う考でありました、然るに福沢先生は、其頃出版物及び塾の事、子供並に家内に関する仕事が多く、又従来会計を総て自分で遣って居られた為め、近頃は迚(とて)も手が廻らぬと云うので、私が福沢先生の家に居て、其世話をする事になりました、

其頃のことであります、私が東京に出たばかりの田舎者であったから、先生は試みに言はれたのかもしれませんが、お前は中津に居たと云うが、材木の相場を知って居るかと申されましたから、知って居りますと答えると、垂木は一本何程か、四分板は一間何程かなどと、細かに尋ねられましたので、私が一一返答すると、今度は障子は一本幾ら、畳は何程と云うような事まで聞かれるので、大抵自分に覚えのある所を答えますと、先生は暫く考えて、伊東さん貴方は明日から巾着切りになったらどうだと申されました、

そこで私がヘーイと言って、何とも申さずに居りました所へ、鹿児島の人で、石亀とか云う人が、先生に頼んで、警視庁の川路さんの所へ紹介して貰って、警部になろうとしたが、余り月給が安いので、今少し高くして貰おうと思って、わざわざ頼みに来たのである、そうすると、先生は彼に向い、君も分からぬ男である、給料などは如何でも宜(よ)いじゃないか、兎に角(とにかく)芋畑に根を据え付けることが肝腎なのだ、一旦据え付けたらば、夫れから先きは、幾らでも枝や蔓(つる)を伸ばす事が出来るではないか、先づ何でも根を下ろすことを早く遣るが宜い、愚図々々せずに、少しも早く雇われた方が好いと言って居られました、

そして私と彼を見較べて、是れは伊東と云う人であるが、今私が巾着切りになれと、勧めて居る所である、巾着切りと警部とは、丸で反対の仕事であるが、是れから双方睨み合って、各々遣る事をやらねばならぬなどと申されました、

先生が私に巾着切りになれと云われた事は、禅学で申せば、一つの公案のようなもので、此時私が真面目になって、そんな事は出来ませんと言えば、夫れならお前は田舎へ帰って、百姓でもしろと言われるに相違ありません、初め私が先生の所へ参った時に、お前は学問をする人間でもない、又役人になる人でもない、と云って商人と云うことに就いては、何とも言われなかった所で、今此巾着切りになれと云うのは、詰り東京は油断のならぬ所だから、人を見たらば盗賊と思えと云う意味であったろうと思います。


箒庵高橋義雄 編『福沢先生を語る : 諸名士の直話』,岩波書店,昭和9.