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大隈重信と伊東茂右衛門

馬場恒吾 著『大隈重信伝』,改造社,1932. 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号101

馬場恒吾 著『大隈重信伝』,改造社,1932. 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号102

【本文】(前略)

福澤が大隈に與えた手紙(註1)

『北門の一条(註2)は誠に騒然、最早二ヶ月にも相成り候えども、世論は中々止み申さず。人の噂七十五日の類に之無く、近来一説あり。云う、今回の一条不正と申せば不正ならん。なれども明治政府は十四年間、この類のこと珍ならず。なんぞこの度に限りて喋々する訳もあるまじ。しかるにかくも喧(やかま)しきは、畢竟(ひっきょう)三菱と五代(友厚)と利を争い、大隈と黒田と権を争うより生じたるものにして、言わば一場(いちじょう)の私闘たるに過ぎず。云々(うんぬん)とて、この作説は随分官海に流行して、ある人々の口實(こうじつ)にも相成るべき模様なり。』とある。

これは山田顕義が岩倉に言上した言葉によって裏書きされている。

薩長方へ、大隈がこうした陰謀を企てていると宣伝したものは、福澤の門下の九鬼であることは『大隈公八十五年史』に出て居る。

尚それよりも詳しくは同じく福澤門下の伊東茂右衛門氏の日誌に出ておる。大正6年7月10日、伊東氏が大隈を訪問してそのことを聞くと

大隈は『アレカ。最早長い昔の話しだが、九鬼隆一(くきりゅういち)が私の為めにする事があったと見える。黒田(清隆)に針程の事を棒のように伝え薩摩人から見ると謀計でもするように思いとり、伊藤(博文)、井上(馨)をグツトいう程威嚇(おど)しつけたから、伊藤、井上の両人は戦慄(ふる)えあがり始終を懺悔して軍門に降り、申し分けの為めに大隈、福澤両人の首を揚げてと約したそうだ。(内閣で参議顔揃いの時に)しかし段々実際を探偵して見れば、九鬼の言うようのことでもなし、国会開設云々(うんぬん)の相談には有栖川宮殿下も岩倉公も興(あづ)かられて居るゆえに、その相談をした、又希望したものを国事犯に訊(と)うなればワシを先に(宮殿下が)捕縛しろといわれたから薩摩人も仕方なしに国事犯の話は有耶無耶(うやむや)の中に葬り去り、又北海道払い下げ云々も沙汰なしに消滅してしまった。』と言っておる。

これで十四年政変の内情が暴露されたわけである。

(後略)

註1 福澤が大隈に與えた手紙・・・茂右衛門を使者として大隈に手紙を渡した

註2 北門の一条 北海道開拓使官有物払下げ問題のこと

馬場恒吾 著『大隈重信伝』,改造社,1932. 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号101-102

大隈重信

ここで注目したいのは、まず、茂右衛門が日誌を残していたということです。その内容は、大正6年7月10日に大隈重信に会いに行って明治14年の政変を回顧してもらったというものです。さすが元時事新報の編集長の仕事ぶりです。明治14年の政変で内閣参議を罷免された大隈にとって一番の苦々しい思い出であり、屈辱的な出来事であったと思いますが、なぜ茂右衛門に語ったのでしょうか。

その後、大隈が大正11年に亡くなり、茂右衛門も翌大正12年にこの世を去ったあと、日誌が一般公開されたのでしょう。昭和7年(1932)刊行の「大隈重信伝」に大隈の証言として茂右衛門の日誌が採用されました。著者馬場恒吾は「これで明治14年の政変の内情が暴露されたわけである」と締めくくっています。

政治史的にも価値の有る日誌ということになりますが、残念ながら日誌全文の存在は確認できていません。

茂右衛門が大隈重信に会ったのは大正6年が初めてではありません。福沢諭吉の執事をしていた頃、福澤の手紙を届けに大隈の屋敷を訪ねています。明治14年10月1日付けの大隈宛の手紙、前掲『北門の一条は誠に騒然~』の最後に付け足す形で

なおもって、この度差し出し候(そうろう)使いの者は、伊東茂右衛門と申す、多年拙宅へ寄留いたし候者にて、委細本人へ申し含み置き候間、ご都合もしかるべく候はば、お逢い奉り願い候。【福沢諭吉全集第17巻p469】

とあり、委細本人に申し含んだと書いていることから、茂右衛門が単に手紙を渡したのではなく、大隈に福澤の考えを確実に伝える役目を与えられていたと思われます。政治的に苦境に立たされた参議大隈と親しい間柄であった福澤が、この状況で茂右衛門を遣わした理由は、やはり信頼が厚かったからではないでしょうか。

しかし、茂右衛門が大隈に手紙を渡した10日後の明治14年10月11日、大隈は対立する岩倉具視・伊藤博文らによって参議を罷免され政府を去ります。政変の真っ只中に茂右衛門も脇役ながら舞台に立っていたことになります。

この政変で大隈派の官僚たちも大勢罷免され、その中には中上川彦次郎ら慶應義塾出身者もいました。また、福澤が明治政府から打診を受けて準備していた新聞発行の話は立ち消えてしまいました。それがきっかけとなり翌年の時事新報の創刊につながっていくのです。