このウェブサイトは、大分県に現存する築160年の古民家の再生を目的に、この土地に刻まれた歴史を細かく紹介しています。

慶応義塾出身名流列伝

明治42年発行「慶応義塾出身名流列伝」


明治42年、慶應義塾創立から50年を超えた記念に出版された人物列伝。発刊時点で20,000人いた卒業生から480人を選んで編集。その中に伊東茂右衛門が収録されています。

【本文】

農業

伊東 茂右衛門氏

東京府豊多摩郡大久保中百人町一四八

      (嘉永三年生)

いかなるゆえにかあらん、めでたき明治のおほみよに生をうけながら、世にも人にもあきたらぬ所ありてにや。たいいんとなりて市井(しせい)に隠れたる伊東茂右衛門氏のこし方の世の常ならぬこそ面白けれ、そもそもこの茂右衛門氏ともうすは九州豊前中津の人、生まれながら聡明の質なりければ、身(み)冢嫡(ちょうちゃく)にあらずして早く世継の位にあるを安からず思ひ、家を養父の嫡子に譲りて、明治十年といふに都にこそは上りけれ、かくて翌年慶應義塾に入り、螢雪の効 推敲の技に耽り一心不乱にぞ勉めたる。「和氏の玉(かしのたま)」は終に世に埋もれぬ習ひなれば、翌年福澤家に入りて執事の様にてぞ暮らされける。十五年、先輩の時事新報を興せるあり氏は直に入りて、日の半ばをば福澤家に、日の半ばをば新報社に勉めて、春の日も暮るゝに早く、秋の夜も更け易きを飽かぬことに思へりける。

かゝれば学問の上達殊の外に速やかにして、詩文は更なり、殖産の道にも暗からず、十七八年の比には奥州上州のあたりに蚕業を調査し其を一巻となして蚕事要録と題し世に公にしたりけるに、はからざる売れ行きにて、幾許もなく二版を出し、其の一部をば、福澤先生に呈したりしに、大いに感嘆に預りこよなき面目を施しけり、

二十年には警視総監より三重縣知事となれりける舊友石井某(註1)が此の人を顧問とせんとて礼を厚うして招かれけり。されど此頃は福澤家の家庭監督にてありければ、二十ヶ月を期として舊友二千石を助くるとに定めたり、されば赴任ののち、山田と云う所に七十餘町の地ありしを牧場として牛馬を養わせしめ、且つ植桑を勧めけり。

又東海道鉄道敷設の議を唱え、鈴鹿峠の難工事を計画し、三井銀行と計り、自ら発起人となりて、諸戸清六に説きて、味方にしたりければ、初め申込金一圓の権利株はたちまち十七八圓にぞ騰りける、

二十四年には甲武鉄道に入りて雨宮敬次郎(註2)を補佐し、ここに初めて其の完成を見るに至れり。

此人かく世に用ゐられながら二十八年よりは、世にも出でずして竹園或は竹山と號し、詩をば川北梅山に學び、和歌をば海上胤平に修めて更に文章に通じ、漢画論を読み自ら南宗画を画く。

かゝる世の拗ね者なれば、福澤先生をば政界の古狸とぞいひける。其故如何にと尋ぬるに、去ぬる明治十四年の比、福澤先生は国会開設の要を認めて、大隈伯と共にその運動を初めりけるが明らさまには語らはん由もなくて、此人を中取次として伯も志の程を語り合はれけるに、後ち政治には一切関係せることなしと云ふを聞きて、しか云はれけるなりとぞ。

著書なども多くて、蚕業経済録、経済事情、間行録等もあり。門には札を掲げて、門内に人喰ふ犬あれば訪ふ者は門外の鈴を押し案内を請ふべき旨を認めあり、面白き人と云ふ可し。

註1 石井 邦猷(いしい くにみち)

天保8年(1837)ー明治26年(1893)

・豊後日出藩藩士

・三重県令 明治18年(1885)~明治21年(1888) 明治19年県知事に改称

註2 雨宮 敬次郎(あめみや けいじろう)

弘化3年(1846)ー明治44年(1911)

・甲斐国山梨郡の名主(なぬし・庄屋)の三男として生まれ、青年期は横浜で相場取引を活発に行う。

・民間初の機械製粉事業を成功させる。これが後の上場会社日本製粉(現ニップン)となる。

・明治21年(1888)、甲武鉄道の経営権を握り、翌22年(1889)新宿ー八王子間を結ぶ路線を開業する。後に国有化され、現在のJR東日本中央本線に引き継がれている。その他にも数々の鉄道事業を手掛け、明治経済界の重鎮となった。