このウェブサイトは、大分県に現存する築160年の古民家の再生を目的に、この土地に刻まれた歴史を細かく紹介しています。

豊後立石の千年 1000-2000

平安時代後期から現代まで立石の1000年を年表で表します

建久元年(1190)庚戌 緒方三郎惟栄(おがたさぶろうこれよし)は、源義経に通じた罪で野国に遠流の刑を受けたが、建久元年に赦されて帰国途中豊後国に入った矢先に立石で没す。馬上八幡神社の境内に祠有り【豊後立石史談p.290】

元応2年(1320)庚申2月3日 立石地頭の河野対馬守通秀がその氏神である郷里伊予国越智郡宮浦村の大山祇命(おおやまづみのみこと)三嶋大明神を勧請する。【豊後立石史談p.120、p.300】

建武(1334)頃 玉泉湛禅師が円福寺を建立。【山香郷土史p.154】

享禄3年(1530) 大友家に属した山香郷内の諸氏に「立石宮内丞」の名がある。大友家から得田1町7段の土地を得ていたと記録。【山香郷土史p.19】

天文3年(1534) 勢場ケ原(せいばがは)の合戦 山口の大内義隆の家臣陶興房(すえ おきふさ)率いる兵3千人が豊後に侵攻、大友義鑑の家臣、吉弘氏直(よしひろ うじなお)と寒田親将(そうだ ちかまさ)を大将とする兵2千800人が勢場ケ原で戦った。吉弘氏直と寒田親将らが討死するも大内軍を撃退。

文禄2年(1593) 太閤検地 宮部継潤による検地で立石村の石高が決まる ・下立石村2269石1斗7升 ・中立石村2664石8斗5升 ・山浦村1863石8斗4升【山香郷土史p.41】【豊後立石史談p.11】

慶長5年(1600)庚子春 立石を含む豊後国速見郡が細川忠興領となる。細川家重臣松井佐渡守康之が治める。

慶長6年(1601)辛丑 立石を含む豊後国速見郡の一部が木下延俊領となる。日出藩の誕生。

寛永19年(1642)壬午1月7日 日出藩初代藩主 木下延俊 江戸で没、享年66。江戸高輪の泉岳寺に埋葬。 

寛永19年(1642)壬午5月9日 父木下延俊の遺言により、日出藩3万石の内、2万5千石を兄俊治に、5千石を弟延由に分ける。立石藩の誕生。【山香郷土史p.177には寛永15年 (1638)とあるが、まだ延俊(1577-1642)存命中なので誤記と思われる】

寛文4年(1664)甲辰 立石2代藩主木下延知、幕府に願い出て旗本となり、参勤交代を行うようになった。【豊後立石史談p.3】

延宝5年(1677)丁巳5月 立石2代藩主木下延知 歌仙(俳諧連歌)をつくる 【豊後立石史談p.412】

元文2年(1737)丁巳4月14日 糸永九右衛門らが庚申塔を建てる。【現、竜ヶ尾地区 杵築市指定有形文化財(建造物)】

文政6年(1823)癸未12月14日 文政の大火 西北の強風により御殿を除く家臣の屋敷を総て焼失。町にも延焼した。出火の原因は木下家家臣工藤某の家来が衣類をこたつに掛けたことによる。【豊後立石史談p.299】

天保8年(1837)丁酉 藩校無逸館(むいつかん)を設立【豊後立石史談p.72】

弘化3年(1846)丙午7月25日 山田蘇作 江戸で裁きで立石にお預けの命を受ける。 10月19日 立石到着 【豊後立石史談p.382】

嘉永3年(1850)庚戌8月7日 暴風雨 領内一帯被害甚だし。【豊後立石史談p.350】

嘉永3年(1850)庚戌 米子瀬の狐憑き騒動 御郡奉行後藤八衛日記に記録 【豊後立石史談p.346】

嘉永4年(1851)辛亥2月19日 米子瀬で年貢米検査の不正疑惑 大庄屋富部行平ら取り調べ受ける。御郡奉行後藤八衛日記に記録 【豊後立石史談p.350】

嘉永5年(1852)壬子2月17日 前年の年貢米検査の不正疑惑を日出藩に出向き取調べ。大庄屋富部行平らは隣村に移転の裁可が下る。御郡奉行後藤八衛日記に記録 【豊後立石史談p.352】 豊後立石史談に富部行平のこれまでの功績を讃える頁あり。【豊後立石史談p.393】

安政元年(1854)甲寅 三嶋四郎 25歳で立石藩の剣術師範に抜擢される 【豊後立石史談p.396】

慶応元年(1865)乙丑 藩の財政難により城山の桜の群生を伐採。翌年まで行う。【豊後立石史談p.288】

慶応4年(1868) 御許山騒動【豊後立石史談p.353】

明治3年(1870)庚午 立石藩木下家中解散 6月26日藩主木下俊清、家臣全員を屋敷に招き別離の宴を催す。一汁三菜の料理と酒肴【豊後立石史談p.30】【山香近代史p.69】

明治10年(1877) 丁丑 西南の役。中津の増田宋太郎が呼応し不平士族が挙兵。中津隊を結成し中津庁舎を放火、立石に進軍し兵に加わる事を強要する。増田宋太郎と旧知の仲であった伊東茂右衛門が交渉し、立石の町は事なきを得る。【豊後立石史談p.358】

明治29年(1896)丙申 帆足義方が馬上金山の鉱区権を得る。蒸気機関1台を据え付けて大規模な試掘を行う。【豊後立石史談p.245】

明治39年(1906)丙午7月 帆足義方の馬上金山が大洪水により水没。坑内全部崩潰。【豊後立石史談p.245】

明治40年(1907)丁未11月 成清博愛が帆足義方から馬上金山の鉱区権を得る。【豊後立石史談p.246】

明治43年(1910)庚戌11月10日 成清博愛の馬上金山での採掘事業が創業。【豊後立石史談p.246】

大正3年(1914)甲寅12月31日 立石に初めて電燈が点く。事業者は大分水力電気株式会社。【豊後立石史談p.283】

大正4年(1915)乙卯3月 山香郷土史発行。志手環著

大正12年(1923)癸亥3月 伊東茂右衛門 東京大久保で没 享年73【豊後立石史談p.362】

大正12年(1923)癸亥9月 豊後立石史談発行。父・胡麻鶴岩八の遺稿を息子達が出版。