このウェブサイトは、大分県に現存する築160年の古民家の再生を目的に、この土地に刻まれた歴史を細かく紹介しています。

伊東 茂右衛門 Ito Moemon 1850-1923

明治時代の著述家。経済に関する本や紀行文を著した。

嘉永3年(1850) 豊後国 立石生まれ。伊東萬蔵の三男。福沢諭吉が創刊した新聞時事新報の初代編集長を努める。大正12年(1923)3月没 伊東竹園または竹山と号す。

嘉永3年(1850) 伊東萬蔵の三男として立石に生まれる 【山香町誌p.686】

8才 安政5年(1858) 山田蘇作に学問を習う(8~12才) ⇐教授の山田蘇作は長崎で通訳の仕事をしていたので外国語ができた。少年期の茂右衛門が外国語を習った可能性がある。

13才 文久3年(1863) 父 萬蔵が商家を新築

14才 元治元年(1864) 綾部文盟に3年学ぶ

17才 慶応3年(1867) 中津で学ぶ  ⇐中津藩校進脩館で学んだか?

22才 明治5年(1872) 義弟二人に家を譲り他郷に仮住まい  【間行録 鎮西部 p7】

 明治4~10年 ⇐中津市学校で学んだか?

27才 

明治10年(1877)4月1日 西南の役 西郷軍に応じた増田宋太郎率いる中津隊70数名が立石に進軍。立石も挙兵を強要されるが、増田と学友だった茂右衛門が交渉し難を逃れた。

【豊後立石史談p.358】【山香近代史p.40】

明治10年(1877) 東京へ 【慶應義塾出身名流列伝より】

28才 明治11年(1878)  慶應義塾入学

29才 明治12年(1879)  福沢諭吉の執事となる

30才 明治13年(1880) 8月~11月 北海道で3ヶ月に渡り現地取材 間行録北海編

    8月14日 人力車で品川駅 汽車で横浜駅 横浜港から全長90mの蒸気船高千穂丸に乗船。3昼夜かけて函館港へ。

    8月17日 函館上陸

    11月17日 横浜港帰港

31才 明治14年(1881) 「交詢雑誌 第36号」(明治14年1月25日号)の「交詢雑誌第36号附録」社員名簿に「英學者 伊藤※茂右衛門」とある。※藤の字は東の誤記

31才 明治14年(1881) 「交詢雑誌 第42号」(明治14年3月25日号)の「交詢社社員姓名録」に「豊後国速見郡立石村 英學者 伊東茂右衛門」とある。

31才

明治14年(1881)12月 「海産論翻訳出版 全628ページ(現存本618ページ以降欠頁)定価1円80銭

 著者:シモントス、翻訳:浜野定四郎・ 伊東茂右衛門 出版者:開拓使

明治14年(1881)12月20日出版「交詢雑誌第74号」(明治15年2月15日号)の交詢社社員名簿第三編」に「東京芝區三田二丁目二番地内 英學者 伊東茂右衛門」とある。冒頭の序文に交詢社の会員数は1880人で「創立以來ノ隆盛ナリ」。名簿には「東京芝區三田二丁目二番地 福沢諭吉」の名もある。茂右衛門が福沢諭吉と同じ慶應義塾の住所になっている。

32才

明治15年(1882)3月1日 福沢諭吉が時事新報を創刊。茂右衛門が初代編集長に就く。戦前の五大新聞。

「日の半ばをば福澤家に、日の半ばをば新報社に勉めて」 【慶應義塾出身名流列伝より】

36才 明治19年(1886)3月 「中外蚕事要録」出版

37才 明治20年(1887)1月 「中外蚕事要録」増補第2版出版

明治20年(1887) 賀来飛霞(72才)を訪問 「飛霞翁花弁図」の題箋をしたためる ⇐賀来飛霞に実力を認められるほど筆に優れていたのは何故

38才 明治21年(1888)2月13日 中外蚕事要録」増補第3版出版 全626ページ 定価1円50銭

(明治19年1月25日版権免許・同年3月出版・明治20年1月17日再版届・同年1月再版・同21年2月1日印刷・同年2月13日三版出版)

10月 「富国策 巻之一 蚕業経済録」出版 全578ページ 定価1円38銭

40才 明治23年(1890) 1月3日 交詢社 年始会に出席 会場築地寿美屋 午後10時閉会  【交詢雑誌353号 1月5日発刊】

40才 明治23年(1890) 2月3日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌356号 月5日発刊】

40才 明治23年(1890) 2月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌358号 2月25日発刊】

40才 明治23年(1890) 3月3日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌359号 3月5日発刊】

40才 明治23年(1890) 4月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌364号 4月25日発刊】

40才 明治23年(1890) 5月3日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌366号 5月15日発刊】

40才

第1回衆議院議員選挙に立候補するも落選

明治23年(1890)7月1日 第1回衆議院議員選挙 投票日

【大分1区】大分郡

【大分2区】北海部郡・南海部郡

【大分3区】大野郡・直入郡

【大分4区】日田郡・玖珠郡・速見郡

【大分5区】西国東郡・東国東郡

【大分6区】下毛郡・宇佐郡 

    

40才 明治23年(1890) 7月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌373号 7月25日発刊】

40才 明治23年(1890) 8月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌376号 8月25日発刊】

41才 明治24年(1891) 1月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌394号 2月25日発刊】

41才 明治24年(1891) 月3日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌398号 4月5日発刊】

41才 明治24年(1891) 雨宮敬次郎が経営する甲武鉄道の事業に協力

42才 明治25年(1892) 1月3日 交詢社 年始会に出席 会場築地寿美屋 午後9時閉会  【交詢雑誌425号 1月5日発刊】

42才 明治25年(1892)9月14日 青梅鉄道発起人の指田茂十郎(さしだ もじゅうろう)が甲武鉄道を訪れ、雨宮敬次郎と伊東茂右衛門に面会、契約書を確定。
青梅鉄道の建設工事は甲武鉄道が受託し、2年後の明治27年に立川青梅間が開通した

9月17日 羽村の指田茂十郎を訪問。青梅鉄道の荷車製造について会談。松木直巳も同行。宿泊し翌18日帰京。

伊東茂右衛門の知人である南一郎平が9月17日に指田茂十郎を訪ねて邸地買入れを依頼している。⇐茂右衛門の訪問日と合わせたか?南一郎平は晩年を東京府武蔵野村(現武蔵野市)で過ごした


【指田家日記 (羽村町史史料集 ; 第12集) 明治25年の日記より】

※指田茂十郎は羽村(現東京都羽村市)の実業家で養蚕業と製糸業で羽村の発展に尽力した。

43才 明治26年(1893) 1月3日 交詢社 年始会に出席 午後1開会9時閉会  【交詢雑誌461号 1月5日発刊】

43才 明治26年(1893) 3月3日と3月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌472号 5月5日発刊】

43才 明治26年(1893) 4月3日と4月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌469号 4月5日発刊】

43才 明治26年(1893) 4月30日(日) 交詢社第14回大会に出席 場所:帝国ホテル 午後1時開催 会費1円 【交詢雑誌472号 5月5日発刊】

43才 明治26年(1893) 5月3日と5月18日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌475号 6月5日発刊

43才 明治26年(1893) 日本胞衣株式会社の取締役 【日本全国諸会社役員録】

45才 明治28年(1895) 日本胞衣株式会社の監査役 (茂右衛門住所 南豊嶋郡淀橋町)

45才 明治28年(1895) 福沢諭吉とその門下生らと箱根伊豆旅行

45才 明治28年(1895)8月13日 「毛武鉄道株式会社設立認可願」を東京府に提出。毛武鉄道株式会社発起人の連署に「東京府南豊島郡淀橋町元柏木八百九十番地 伊東茂右衛門」

46才 明治29年(1896) 1月3日 交詢社 年始会に出席 会場 帝国ホテル 午後3開会6時閉会  【交詢雑誌511号 1月15日発刊】

46才 明治29年(1896) 5月18日と6月3日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌516号 6月15日発刊】

46才 明治29年(1896)9月20日 「毛武鉄道株式会社創業総会議事録」伊東茂右衛門の名

10月30日 「毛武鉄道株式会社設立免許申請書」を東京府に提出。発起人の一人に伊東茂右衛門

46才 明治29年(1896)12月14日 「京板鉄道株式会社創立認可申請書」の創立発起人に伊東茂右衛門の名。発起人18人の中に渋沢栄一、中江兆民(篤介)

46才 明治29年(1896) 12月31日 「経済事情」出版 定価1円 「著作兼発行者 大分県平民 伊東茂右衛門 東京府下豊多摩郡淀橋町元柏木」

47才 明治30年(1897) 1月18日と2月3日 交詢社 随意談会に出席  【交詢雑誌524号 2月15日発刊】

47才 明治30年(1897)2月 「避煩日記」出版 年始の挨拶まわりのわしさをけるために福沢諭吉らと旅行に出かけた様子を書いた手記。(ひはんにっき)

49才 明治32年(1899) 大分県帰省 養父没する ⇐少年期に養子に入ったか?自著「間行録」で自身の生い立ちを説明した文章あり

10月24日~28日 耶馬渓を探訪、深瀬之景を中津新報記者が新耶馬渓と書いたことに触れ、深耶馬渓としたほうが幽深でよいと主張した。【間行録p21】

※その後、昭和和3年(1928)4月1日 柿山村が改称し、深耶馬溪村が誕生

51才 明治34年(1901) 福沢諭吉没 享年66 

52才 明治35年(1902)12月 在京大分県人会「二豊倶楽部」の幹事を務める。幹事は他に酒井才二郎、鷹居匡。経済時報に広告掲載。

54才

明治37年(1904)2月24日発行 「間行録(かんこうろく)出版 全65ページ 東京日本橋の丸善書店で販売された。

3巻とも定価20銭

北海部は、茂右衛門が北海道を視察旅行して見聞きした現地の産物の紹介や開拓の様子を記している。川北梅山(かわきたばいざん)による序文には、少年期の茂右衛門が中津市学校で学んだと書かれている。中津市学校は福沢諭吉が推奨し、中津藩家老生田家邸に明治4年(1871)11月に開校した洋学校で、慶應義塾から小幡篤次郎が初代校長に、第2代校長として浜野定四郎が赴任している。その後明治16年(1883)に閉校した。

鎮西部は、明治32年、東京に住む茂右衛門へ養父危篤の知らせが来て、急いで立石に戻る様子を記した紀行文。茂右衛門の生い立ちから家族の事、立石天満社と延隆寺の山田蘇作翁墓を参拝したことなどが書かれている。

養父葬儀の後、九州各地を汽車などで移動しながら名所を訪れ、旧友を訪ねている。

明治後半の大分県を始め福岡、熊本、佐賀、長崎の名所旧跡、地名を知ることができる。


慶応義塾図書館和漢図書分類目録第2巻と早稲田大学図書館和漢図書分類目録第11巻に間行録について掲載がある。これは両校の図書館所蔵目録であり、同書が閲覧用に置かれていたことを証明する。

59才 明治42年(1909) 「慶應義塾出身名流列伝」に主な卒業生のひとりとして人物伝が掲載される。

59才 明治42年(1909) 7月16日

兄・伊東万次郎が大分県から功労者表彰を受け銀杯を下賜される。
「資性篤実つとに意を公益に注ぎ明治10年率先して模範造林を企画し以て植林の有利を示し又木蝋製造法の改良に力をつくす等 常に公益を図りその成績著明なりとす よって銀杯一個を下賜しこれを表彰す」【官報明治42年(1909)10月23日掲載】

66才 大正5年(1916)9月20日発行 「竹石小言」 土井聱牙との共著、伊東竹山補筆編集 定価35銭

茂右衛門は、竹園、竹山、山道人と号し、漢詩や和歌に通じた。水墨画の一種である南画を描いた。明治28年(1895)には全ての公職を辞して東京大久保で過ごした。

大正12年(1923)3月、東京 大久保にて逝去 享年73

伊東茂右衛門は伊東萬蔵の三男にして、夙(つと)にお預人山田蘇作翁に就きて漢学を学び、後東都に出でて福澤先生の門下に入り、専ら経済の学を修めて海産論、蚕事要録、富国策等の著あり。晩年風流韻事に隠くれて全く世に出でず、山道人の名を以て丹靑の余技あり。又禅に参じて悟入頗る深かりしと聞く。大正十二年三月病を以て東都大久保の寓に逝く、享年七十有三。」 【豊後立石史談 胡麻鶴岩八著 p.362】