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間行録 巻之二 鎮西部

伊東茂右衛門(竹山)著

間行錄卷之二 鎮西部 

        伊東竹山著

【本文】【一】余離郷二十餘年、毎二三年一歸省、今不歸者十年于茲矣、歳十月五日、家報嚴君病、乃治裝將發、忽値暴風雨、自沼津富士川銕軌凌夷、復修未竣、因謀自横濱以航神戸十一日、抵横濱求船、而乗客滿矣、幸頼所識船員力周旋以得乗、船中客有鈴木梅四郎者、邂逅相遇、共談舊濶、遣船行之欝、翌日風起、船動搖甚、婦女皆眩、男子亦無就食案者、午後三時、

【一】の読解

【一】余は郷を離れ20余年、二・三年ごとに一歸省、今は10年帰らず、

10月5日、家は嚴君(ゲンクン)病と報らす、すなわち治裝將發、たちまち暴風雨にあたる沼津より富士川にいたる銕軌(テッキ)は凌夷(リョウイ)を數(カゾ)える、復修未竣、因って横濱より以って神戸へ航るを謀る、

11横濱に抵り船を求める、而乗客滿矣イ、幸い頼所識の船員の力で周旋(シュウセン)を以って得る乗るを、船中に客有り鈴木梅四郎者、邂逅(カイコウ)相遇(ソウグウ)、共談舊濶(キュウカツ)、遣船行之欝(フサ)ぐ、翌日風起、船 甚だ動搖婦女皆眩(ママイ)、男子亦無就食案者、午後三時


【語釈】余よ 私/ 餘 余の旧字体 あまり/ 茲ココ 矣イ/ 嚴君げんくん 養父/ 乃 すなわち/ 裝 装の旧字体 /將發 将発 まさにはっす/ 忽 たちまち/ 値 あたう/ 自 より/ 至 いたる/ 銕軌てっき レール・鉄道の軌条 線路/ 數 数の旧字体 かず/ 凌夷りょうい 物事の衰退する様/ 因って謀る/ 抵 あたる/ 周旋 しゅうせん 交渉/ 鈴木梅四郎/ 邂逅 かいこう/ 相遇 そうぐう/舊濶 旧濶きゅうかつ 長らく連絡をしてないこと/ 欝ウツ(フサグ)/ 眩めまい /

本文余白に加えられた編集者註:鷲聲日起法爽利

【二】達神戸港、由山陽銕道播州舞子、投龜樓々濱海在松林中、對淡路島、眺望絶佳、(鷲聲日氣充・沛)爲都人士消暑避寒之地、凡明石須磨十數里間、宛然都會、北背山、南面海、三冬不知寒、盛夏不知暑、眞養痾之勝境也。

十三日 快晴、早發舞子、一線山陽銕道自車窓騁望、自播州備前、此間仲秋暴風雨被害最甚、今猶有田畝浸水、渺漫如湖者、或有颶風卷地、盡爲不實之郷、惨狀可愍、乗客日、仲秋以来、大風雨者三、山陽諸國、收獲不過十之三、近歳不擇米質貪收獲、好植晩稻、今年晩稻被害最甚、余見其地形、田面低、河底-

【三】-高、故一所决水、沿涯漲溢、被害至此、固其當也、厥後治水之方可不講乎(註1)、抵廣島、與末延道成松本重太郎、同車、道成東京人、重太郎大坂人、皆山陽銕道會社董事、午後十二點鐘、逹德山、與道成別、與重太郎下車、乘汽船、航門司、赴鎮西者、自是取海路爲便、自山陽銕道九州、有連絡汽船、而航豐前門司港、晝夜徃復三回其便可知也。

十四日  午前五點鐘門司港、憩茶店、蓋此地、昔時一漁村、近歲開港埠、當九州豐州兩銕道線道、商買輻輳、樓櫛比、變爲一都會海汀一里間、積煤成-

【二】【三】の読解

【二】神戸港に達す山陽銕道 播州舞子抵(イタ)る亀楼に投ず、楼は浜海に在あり 松林の中、淡路島に対す、眺望絶佳、都の人士 消暑避寒之地となす、凡そ明石須磨は10数里の間、宛然都會、北の背を山に、南を面し海に、三冬寒さを知らず、盛夏暑さを知らず、眞に養痾(ヨウア)之勝境也。

13 快晴、早く舞子を発す、一線山陽銕道自り車窓騁望(テイボウ)播州より備前にいたる、此間仲秋(チュウシュウ)暴風雨、被害最も甚だし、今なお 田畝浸水有り、渺漫 湖の如く者、或いは有颶風(グフウ)卷地、尽きる爲不實之郷、惨状あわれむべし、乗客日く、仲秋以来、大風雨者三、山陽諸國、收獲は10の3に過ぎず、近歳 米質を択(エラ)ばず 貪收獲、好んで植える晩稻(バントウ)、今年晩稻の被害最も甚だし、余は見て其の地形を、田面が低く、河底が-

本文余白に加えられた編集者註:(鷲聲日氣充・沛)(梅山日紀行中此等之事最不可不叙世人徃々不注目此間乃爲無文字)

【語釈】播州舞子 舞子浜/ 龜樓 舞子浜の宿 万亀楼の事か/ 養痾 ようあ 療養/騁 はせる テイ/ 渺 はるか・ビョウ/ 颶風 ぐふう/ 盡 尽の旧字体 つきる・ジン/ 愍 あわれむ/日く いわく/擇 択の旧字体えらぶ/晩稻ばんとう


【三】-高く、故に一所决水、沿涯漲溢、被害はここに至り、もとよ其當也、厥後(ケツゴ) 治水之方可不講乎訳「その後の治水のことは講義しなくてよいのか」註1⇐中国古典 夏の禹王の治水の逸話からからの引用文の可能性)

廣島にあたる、與は末延道成松本重太郎、同車、道成は東京人、重太郎は大坂人、皆山陽銕道會社の董事、午後12點鐘(テンショウ)德山に達す、與は道成と別れ、與重太郎は下車、汽船に乘り、門司に航る、鎮西に赴く者は、これより取海路を取るが便と為す、山陽銕道より九州にいた、連絡汽船あり、而して豐前門司港に航る、昼夜で3回徃復す其の便をしるべしなり。


本文余白に加えられた編集者註:(鷲聲日古朴簡老叙事得法)

(又日日本人多用炭字煤乃適當)


14  午前5點鐘 門司港抵る、茶店で憩う、蓋し此地、昔時一漁村、近歲開港埠、當九州豐州兩銕道線道、商買輻輳(フクソウ)、樓櫛比(シッピ)、海汀一里の間は一都と為し変わる、積煤成-

厥後 けつご そのあと/鎮西 九州のこと/ 輻輳ふくそう/櫛比しっぴ 櫛の歯のように/

【四】-堆、筑豐煤、自此而稠載輸出、勢力能左右東洋諸港煤價云、發門司、過小倉二十哩餘、抵行橋、自是分兩線、一線田川郡、一線宇佐郡田川線、主運搬煤、宇佐線、即豊州本線、近時煤礦益盛大、其利出本線之上云、午抵宇佐、此爲豊州銕道終點、雇腕車、渡驛舘川、過長洲町、人戶千餘、民皆殷富、然文化未洽、慢禮節、言語風俗頗粗野、故隣嘲日、長洲唐人、二里經田口、入山間禾穀豊熟、農夫日、本年海濱多不豊、山村皆如此、山中不受風害、故然、晚 達立石、親戚舊故、出迎於途上、恍然如隔世、不解裝上坐、謁家嚴、病甚

【五】危篤、言語不亮、見余涕、余不覺吞聲、百方慰病苦、」

十五日 曉起侍坐、已不辨人面僅爲氣息而巳、想属纊不遠、國風凶服忌賽神、因詣村祠天滿社、々在城山麓、相距僅六七町、爲此間大社、按舊記、齋衡豊後介山口宿禰所創祀、物部天神、後世誤傳、爲菅神、境內清潔、稍スコシ有風致、夜不見蚊、故宵間多納凉遊客、社前拝殿闔壯、 右有神樂堂、二百年前物、外観甚粗、然木工來、見用材方法、爲模範。

 十六日 邑中傳聞余歸郷來訪者多、殆不暇應接

 十七日 拜先塋、歸路過延隆寺山田蘇作先生の-

【四】【五】の読解

【四】-堆、筑豊炭、ここより而稠(オオ)く載せ輸出、東洋諸港の炭価を左右するにあたう勢力と云う、門司を発し、小倉を過ぎ20里余り、行橋抵る、是れより分兩線、一線は田川郡、一線は宇佐郡田川線、主に炭を運搬す、宇佐線、すなわち豊州本線、近時 炭砿益盛大、その利出本線之上云、午 宇佐抵る、ここ豊州鉄道北の終点となす腕車を雇い、驛舘川を渡る、長洲町を過ぎ、人戶千余り、民皆殷富、然れどもいまだ文化洽(アマネ)さず、礼節を慢す、言語風俗すこぶる粗野、ゆえに隣は嘲して日く、長洲唐人、二里を経て田口、山間にいり禾穀(カコク)豊熟、農夫日く、本年は海濱の多は豊ならず、山村皆ここのごとし、山中は風害を受けず、故然、晚に立石に達す、親戚 旧故が、途上において出迎え、恍然 隔世のごとし、装を解かず上坐す、家嚴に謁、病甚だし

稠 おおい チュウ 集める / 腕車 わんしゃ うでぐるま 人力車のこと/ 洽 あまねく コウ 広くゆきわたる 

【五】危篤、言語不亮、余を見て涕く、余は吞声(ドンセイ)を覚えず、百方慰病苦、」

15 曉に起き侍坐す、已不辨人面わずかに気息を為すのみ、想属纊遠からず、國風は服忌(ブッキ)に神を賽(サイ)すを凶とす、よって村祠天満社に詣でる、社は城山の麓に在り、相距わずか6・7町、爲此間大社、旧記に按す、齋衡豊後介山口宿禰(スクネ)所創祀、物部天神は、後世に誤伝し、菅神と為す、境內清潔、少し風致あり、夜は蚊を見ず、ゆえに宵間は納凉の遊客多し、社前の拝殿壮を閉じる、右に神楽堂あり、200年前の物、外観は甚だ粗し、然るに木工來、用材方法を見て、模範と為す。

 16日  余の帰郷伝聞し、来訪者多し、殆んど應接で暇ならず、

 17日 先塋(センエイ)を拝み、帰路延隆寺を過ぎる、展山田蘇作先生の-


吞声(ドンセイ) 泣き声の出るのをぐっと抑える/ 服忌(ブッキ) 「服」は追悼の気持ちを表す期間、「忌」は祈りの行事期間 当時の服忌令は、父母に対する「忌」が50日、「服」は13ヶ月。服忌中に神社への参拝を忌み嫌う風習。/ 先塋(センエイ) 先祖の墓

【六】-墓、請寺僧讀經拜奠、先生肥前人、初事五島侯、後來長崎、爲譯官、有罪囚於江戶弘化中經官裁、命錮之立石藩幽居二十年、元治甲子十一月二十二日病歿、齡七十一、余八歲入門受業、先生歿時、余齡十二、先生通蘭語、能漢籍、能、又善箏笛雜枝、導弟子懇懃如子、余性頑鈍、先生諄々教諭、得領語孟大義、言猶在耳、過老僧隱宅、此僧好探金鑛、出示所得砂金、或鑛石、頗有所見、且日、老境艱起居、頃者付鑛山於人、以絶俗事、

十八日 家嚴危篤、午後二點鐘逝焉齡七十有四、

【七】家嚴娶妻、經十年無子、以余爲母弟、乳養爲子、後四年生男、又四年生男、余齡二十二譲家二弟、寓居他郷、今已二十有七年、中間每二三年、必省郷、此回不省郷、殆十年、而歸侍僅三日、見捐舘、何等不幸、悲悼不能措矣

十九日 以佛式營葬於先塋會葬者 無慮 若干人、余慟哭不禁、手巾拭淚、不欲復接人。

廿日廿一日 親戚故舊來吊

廿二日 晴朗、「三里抵宇佐訪姻家吉成、拜祖先之靈、抵八幡宮、訪宮守某、坐見一知人相共語今昔意- 

】【七】の読解

墓を展べる寺僧に請い、読経拝奠(ハイテン)す、先生は肥前の人、初め五島侯に事え、後に長崎に来て、訳官と為す、罪ありて江戶に於いて囚われる、弘化中 官裁を経て、立石藩に命じ之を錮す、幽居20年、元治甲子11月22日病歿、齡71、余は8歲で入門し業を受ける、先生没する時、余は齡12、先生は蘭語に通じ、漢籍を能う、書を能う、又善く箏笛(ソウテキ)雜枝、弟子を導くこと、子如く懇懃(オンゴン)、余の性は頑鈍にて、先生は諄々(ジュンジュン)と教え諭す、語孟大義(ゴモウタイギ)を得領す、言はなお耳に在り、過老僧隱宅、この僧は金鉱を探るを好む、砂金を得る所を出し示し、あるいは鉱石、すこぶる見る所有り、かつ日く、老境にて起居に艱(クル)しむ、頃者付鉱山於人、以絶 俗事。

18 家嚴危篤、午後二點鐘 逝焉齡70有4、


【七】家嚴 妻を娶り、十年を経て子無く、もって余を母弟と為す、乳養 子を為し、4年の後 男生まれ、又4年 男生まれる、余は齡22で家を2弟に譲り、他郷に寓居す、今すでに20有7年、中間毎2・3年、必ず郷に省す、此回 郷に省さず、ほとんど10年、而して帰り侍るわずか3日、館を見損ねる、何等不幸、悲悼能わず措矣

19 先塋に於いて仏式をもって営葬す、会葬者は無慮 若干人、余は慟哭禁ぜず、手巾で涙を拭う、また人と接するを欲せず。

20日21 親戚 故旧 来弔

22 晴朗、「三里で宇佐に抵る、姻家吉成を訪ねる、祖先の霊を拝む八幡宮に抵る宮守某を訪ねる、坐見一知人相共語今昔意- 


展べる のべる/ 拝奠 はいてん お供えして拝む/ 錮 こス 禁錮/ 慇懃おんごん 心がこもってていねいなこと/ 諄々じゅんじゅん 繰り返し/ 語孟ごもう 論語と孟子 「語孟字義」という江戸時代の書物がある/悲悼 ひとう 人の死を悲しみいたむこと/無慮むりょ おおよそ/若干人ジャッカンニン/ 慟哭どうこく/

【八】-頗懇々、出幣錢嘱代拜、按名式、宇佐郡三座、有八幡大菩薩宇佐宮此賣神社大帶姬廟神社、蓋大帶姬廟神社、祀神功皇后此賣神社、祀是思姬命、市杵島姫命湍津姫命三神、八播宮應神天皇八幡宮緣起所説、頗属奇異、要皆訛傳說、不足置信、新井白石紳書日、神功皇后、新羅、還幸時、留御幡八流對州、詔曰、朕精靈所憑、後土人神殿、安之、稱八幡宮、此近得其實矣、和銅五年、敷始造神殿小山田養老七年、移今之菱形山、廊廟營搆極盛大、實爲海内第一大社矣、徃昔改築、以六十一年爲期、而官- 

【九】-助其費、附祀田五千石、以充常費、宮司禰宜以下、掌祀事者、八百八人、維新以来、改此法、政府不復給修營費、故漸歸壊癈、可惜也、菱形山、占大本山麓、大樹鬱蒼、四周鑿溝、如城址、西南有河、日寄藻、架家形橋、名呉橋細川候所架、營構堅牢、蓋三百餘年前者、過橋人家稠密、為市街、製飴者最多、此地名産、過呉橋、訪時枝重明欣然出迎、請留宿、以有他約辞去、訪堀某、老婦善和歌、師海上胤平翁、二里抵宇佐停車所、駕蒸滊車、四里抵中津、舊為奥平候城下、地占高瀬川下流、民皆殷富、人戸四千、豊前第一都會、余少時遊-

【八】【九】の読解

【八】-頗スコブ懇々、幣錢ヘイセンを出し代拜を嘱タノむ、按神名式、宇佐郡三座、八幡大菩薩有り宇佐宮(ウサノミヤ)此賣(ヒメノ)神社大帶姬廟(オオタラシヒメビョウ)神社、けだし大帶姬廟神社神功(ジングウ)皇后を祀り、此賣(ヒメ)神社は、是思姬命(タキリビノミコト)市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)湍津姫命(タギツヒメノミコト)三神を祀る、八幡宮應神天皇を祀る、八幡宮の緣起は所説、頗属奇異、要皆訛傳說、信を置くに足らず、新井白石紳書日く、神功皇后、新羅を征し、還幸時、対州に於いて御幡ミハタ八流ハチリュウを留め、詔曰く、朕 精霊に憑かれし所、後に土人神殿を築く、これを安んじ、八幡宮と称す、此近得其實矣、和銅五年、敷始造神殿小山田養老七年、今の菱形山に移す、廊廟營搆極盛大、實爲海内第一大社矣、徃昔改築、以61年を期と為す、而官-

【九】-助其費、附祀田五千石、以充常費、宮司 禰宜以下、掌祀事者、八百八人、維新以来、改此法、政府不復給修營費、故漸歸壊癈、惜しむべきなり菱形山大本山麓を占める、大樹鬱蒼、四周鑿溝、城址の如く、西南有河、日く寄藻、家形の橋架かる、名は呉橋細川候架ける所、構堅牢、けだし300余年前者、過橋人家稠密(チュウミツ)、市街を為す、製飴者最も多く、此の地の名産、呉橋を過ぎ時枝重明を訪ねる欣然出迎、留宿を請う、他の約有るをもって辞去、堀某を訪ねる、老婦 和歌を善くし、師は海上胤平翁、二里で宇佐停車所に抵る蒸滊車に駕する、四里で中津に抵る、旧 奥平候城下と為す、地占高瀬川下流、民皆殷富、人戸四千、豊前第一都會、余少時遊-

西田繁造 編『日本名勝旧蹟産業写真帖 : 国定小学校教科書準拠』地,西田耕雲堂,明45.4. 国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号123

【十】-學於此、殆五年、今也過校地、校舎已癈、邸屋歸奥平候之有、家屋徹去、園邸荒蕪、其存舊景者、纔老樹興癈池耳、懐舊之念、不能禁、隣家為中野松三郎邸、松三同學友、欣然延座、倶語今昔、遂宿、

廿三日 陰、詣公園、訪湯谷基守、園為奥平候城址、近歳建設 勢廟 遙拝所基守掌社務、餘暇修國學、能和歌、與邑有志者設歌會、請海上胤平翁點删、此日會日、村上横井以下相會、余延座、快談至晩、訪姻家鈴木力、不在、家人款待、乞留宿、以有約辞、訪和田基太郎基太曾遊學東都、能英學、管奥平候家努、名望-

【十一】-甚高、出迎叙濶、情意極懇、老婦亦能和歌、談至四更辞、歸宿逆旅、夜雨傾盂、

廿四日  暁晴、將遊耶馬渓腕車早發沿山國川里許、至高瀬村、堰水廣十數町、嚢一里許、逊漫如湖、稱日三口水門有三、度水量開閉增減、盛夏灌漑一仰堰水也、又行里餘佐知村道傍一酒鋪、垔壁列宇、可知其爲富家也、門標日佐知兼次、余識兼次市學校投刺請見、兼次喜迎延座、閑談移時、約皈途再會辞去、行二里、過樋田驛、山間一邑市、復行十數町抵青村、自此地勢一變、逕沿山國川奇巖怪壁、轟立千-

【十】【十一】の読解

【十】-學於此、殆ホトんど5年、今也過校地、校舎已スデに癈スタれる、邸屋は奥平候之有に帰す、家屋徹去、園邸は荒蕪コウブ、其存旧景者、纔ワズかに老樹興癈池のみ、懐旧カイキュウの念、禁ずるを能わず、隣家は中野松三郎邸と為す、松三同学友、欣然として延座す、倶に今昔を語る、遂に宿す、

23 陰、公園に詣でる、湯谷基守を訪ねる、園は奥平候城址と為す、近歳勢廟セイビョウ 遙拝所ヨウハイジョを建設す基守社務を掌(ツカサド)る、餘暇カ國學を修む、和歌を能くする、與の邑ムラは有志者で歌會を設ける、海上胤平翁に点削を請う、此の日は会日、村上横井以下相い会す、余延座、快談晩に至る、姻家鈴木力を訪ねる、不在、家人款待、留宿を乞うも、約有るをもって辞す、和田基太郎を訪ねる基太かつて東都に遊学す、英学能くする、管奥平候家務、名望-

【十一】-甚はだ高し、出迎叙濶、情意極懇、老婦また和歌を能くする、談は四更(シコウ)に至り辞逆旅(ゲキリョ)に帰り宿す、夜雨傾盂、

24  暁晴、将に耶馬渓に遊ぶ腕車早発し山國川に沿って里許リキョ、高瀬村に至る、堰水廣10数町、嚢一里許(イチリバカリ)、逊漫如湖、称して曰く三口水門は3有り、度水量開閉增減、盛夏灌漑一仰堰水也、又行里餘佐知村道傍(ドウボウ)一酒鋪、垔壁列宇、その富家と為すを知るべしなり、門標(モンピョウ)に日く佐知兼次、余は兼次市学校に於いて識る投刺(トウシ)請見、兼次喜迎延座、閑談移時、約皈途(キト)再会辞去(ジキョ)、2里行く、樋田驛を過ぎる、山間一邑市、また行くこと10青村、ここより地勢一変、逕沿山國川奇巖怪壁、轟立千-

勢廟 神社のこと/ 點删 添削/ 逆旅(ゲキリョ) 宿屋のこと/ 垔イン ふさグ/ 投刺トウシ 謁見を求める

【十二】-仭、山巖下、穿崖壁為隧道、壁間所々開●取明、出隧道、日曾木村、連山群峯、競奇争妍、楓樹掩映松間、人之遊耶馬者甚不為異、蓋為耶馬支流矣、憩道傍孤店、稱所㑉食籠、店婦煮黄魚以進曰、耶馬名産、味優他産、更行數百歩、有一渓、東来會山國川、架板橋、稱耶馬橋、渡橋沿渓流行半里、山腹一寺、日羅漢寺、磴道十町許、達寺門、扁額書曹光宗三字、知其為曹洞派、門左岩洞、稱無漏窟、安五百羅漢、及千體地藏石像、更登數十歩、抵摩尼殿、鑿絶壁、設半面堂、東有東照宮石爛室指月菴、皆係數百年前建設、專-

【十三】-主堅牢、不甚精工、小憩摩尼殿、寺僧、出見進茗、應接不似山僧、蓋常慣遊客也、頼山陽、曾遊此、至羅漢、不賞之日、山不得水不生動、石不得樹不蒼潤、余之所以馬渓、而不賞仙巌、至於羅漢則人工耳、秋谷面雍耶馬渓眞趣圓卷序日、余意興山陽異何者山脈蜿蜒數十里、至羅漢寺、為山之尾、極力一棹、而全身倶振、故其奇抜乎諸勝之上、且其嶂壁崛起、嵬峩天造、地設、非人力之所能點綴也、此言獲余心、余生豊後、遊此數回、今亦来遊、諦視之、山陽羅漢寺、面雍論附近巌壁、余試合全勝而論之、夫羅漢地勢、後有-

【十二】【十三】の読解

【十二】-仭(センジン)、山巖下、崖壁を穿ち隧道と為す、壁の間 所々開● 明りを取る、隧道を出る、日く曾木村、連山群峯、競奇争妍、楓樹掩映松間、人之遊耶馬者甚不為異、蓋し耶馬支流と為す矣、道傍孤店に憩う、称所㑉シュク食籠(ジキロウ)、店婦煮黄魚以て進めて曰く、耶馬名産、味優他産、更行數百歩、一渓有り、東来山國川と会す、板橋を架す、称して耶馬橋、渡橋沿渓流に沿い橋を渡り行くこと半里、山腹一寺、日く羅漢寺磴道10町許り、寺門に達す、扁額 曹光宗三字を書く、其の為曹洞派と知る、門の左に岩洞、称して無漏窟五百羅漢を安んじる、及千體地藏石像、更に登ること数十歩、摩尼殿に抵る、鑿絶壁、半面堂を設け、東に東照宮有り石爛室指月菴、皆係数百年前建設、專-

【十三】-主堅牢、不甚精工、摩尼殿にて小憩す、寺僧、出見進茗、應接山僧に似ず、蓋し常慣遊客也、頼山陽、曾て此に遊ぶ、羅漢に至る、之を賞せず日く、山は水を得ずば動を生ぜず、石は樹を得ずば蒼潤ならず、余の馬渓を賞す所以(ユエン)、而不賞仙巌、至於羅漢則人工耳、秋谷面雍耶馬渓眞趣圓卷序日、余意興山陽異、何となれば山脈蜿蜒(エンエン)数十里羅漢寺に至る、為山之尾、極力一棹(ヒトサオ)、而全身倶振、故其奇抜乎諸勝之上、且其嶂壁(ショウヘキ)崛起(クッキ)嵬峩(カイガ)天造、地設、非人力之所能點綴(テンテン)也、此言獲余心、余は豊後生まれ、此に遊ぶこと数回、今また遊び来たる、諦視(テイシ)之、山陽羅漢寺、面雍論附近巌壁、余試合全勝而論之、夫羅漢地勢、後有--

【十四】-枯苹、前臨渓流、東西村落、羅漢山突起、占勝地、東有大嶽瀧上山、樹木森鬱奇峰錯出、西有曾木山崛起、搓牙痩秀、宛然如倪黄靑丹圓、耶馬渓亘敷十里、探之者、多自山麓仰見過去、故眼界甚狭小、凡耶馬全勝、眼界之廣遠、以羅漢為第一也、下山過多志田、地勢開潤、田疇相接、川南村日平田遠望風致甚佳、里許口之林道傍逆旅、遊者多宿於此、過此山勢忽迫、群巖層出、渓流中貫、晩達柿坂、地形稍𤄃、高峰雲間、日都々伎嶺、怒起岝㠋刺天、左嶺傲寛、怪巖突出、如狡猊、如騰龍楓拍紅黄、雑以綠樹、

【十五】如油繪然、山陽見此勝、歎賞為不可状、俗稱日筆捨山旅舘投宿、十七年前所宿、舘翁見余呼名、余驚其強憶、

廿五日 晴天、舘翁日、探耶馬之勝者、大抵以柿坂為第一、然耶馬之勝、不盡於此、可歎賞者猶多、若欲遍探之、則要十數日、今君欲見最異境、則盍探深瀬深瀬自是五里東北、達玖珠郡森町、係新開道路、自鴫良二里、至鹿倉巖峰最奇、此間往昔人跡不至、雖獵人知之者少、新道一開、車馬往復、殆為一仙郷、余聞之、遊意勃々不能禁、因托行李旅舘、軽装而發、距-

【十四】【十五】の読解

【十四】-枯苹(コヘイ)頂、前に渓流を臨み、東西村落、羅漢山突起、勝地を占める、東に大嶽瀧上山有り、樹木森鬱奇峰錯出、西に曾木山有り、崛起(クッキ)蜒蜿(エンエン)牙痩秀、宛然(エンゼン)黄靑丹円倪(ワケ)る如(ゴト)し、耶馬渓亘敷十里、之を探るは、過去に山麓を仰ぎ見る自り多し、故に眼界甚だ狭小、凡耶馬全勝、眼界之広遠、以て羅漢を第一と為す也、山を下り多志田(タシダ)を過ぎる、地勢開潤田疇(デンチュウ)相接、川南村日く平田遠望風致甚だ佳し、里許口之林に抵る、道傍逆旅(ゲキリョ)有り、遊ぶ者の多くはここに於いて宿す、ここを過ぎ山勢は忽(コツ)と迫る、群巖層出、渓流中貫、晩柿坂に達す、地形稍𤄃(ショウカツ)高峰有り聳雲間、日く都々伎嶺、怒起岝㠋(サクガク)刺天、左嶺傲寛、怪巖突出、如狡猊騰龍楓拍紅黄、雑以綠樹、

枯苹(コヘイ) 枯れた浮草/搓ヨる よじる/ 宛然(エンゼン)さながら/田疇(デンチュウ) 田あぜ/逆旅(ゲキリョ) 宿屋/


【十五】如油繪然、山陽此の勝を見て、歎賞(タンショウ)為不可状、俗に称して曰く筆捨山(フデステヤマ)、旅舘有り投宿す、17年前宿し所、舘の翁 余を見て名を呼ぶ、余は其の強憶に驚く、

25 晴天、舘の翁日く、耶馬之勝を探る者、大抵は柿坂を以て第一と為す、然れども耶馬之勝、此に於いて尽きず、可歎賞(タンショウ)者なお多し、若(モ)し遍(アマネ)く之を探らんと欲せば、則(スナワ)ち十数日を要す、今君最も異境を見んと欲せば、則ち盍(ナン)ぞ深瀬を探らざる深瀬は是れ自り5里東北、玖珠郡森町に達す、新開道路に係る、鴫良(シギラ)自り2里、鹿倉(カクラ)に至る、巖峰最奇、此の間カン往昔(オウジャク)人跡(ジンセキ)不至、獵人(カリュウド)と雖(イエド)も之を知るは少なし、新道一開、車馬往復、殆んど一仙郷と為す、余は之聞き、遊意(ユウイ)勃々(ボツボツ)禁ずるを能わざる、因(ヨツ)行李(コウリ)を旅舘に托し、装を軽くし而(シコウ)して発す、距-

【十】-柿坂數百歩、一渓来自東北、合本流一路沿川、道傍有標示、日右日田道、左玖珠道、取左道行里許、得一峻嶺、中腹以上絶壁如削、壁下老杉蒼翠、其景甚雄壮、日鹿熊嶺、此為耶馬渓最高嶺、踰嶺地勢忽開、有村、日山移、行里許、抵物部、地勢愈𤄃、人家錯落榮紆而進、抵馬場小憩、取望遠鏡諦視衆峯、怪㠋絶壁、松樹蟠生、壁頂生櫨靑紅参差、實為佳観、始知羅漢口林柿坂諸勝、不過山麓之一勝境耳、又行半里、抵鴫良忽然渓山窘逼、地形一變、嶂壁崛起、怪石角列、更行、渓日深瀬、山愈秀、流愈駛、一歩毎一歩皆奇、抵回

【十七】願望、夕陽將沉前程猶遠、恐至夜行、付之明日、疾歩而進、比達山頂、日已沒、黒暗不辯、忽得隧道水滴為聲、心窃疑懼、暫憩石上、裂手巾為縄、點火取明、鼓勇而過、艱甚、出隧道行五六町、有三四村家、日鹿倉、請宿不可、又行里許、抵森町、宿大有軒、始為蘇生之念、憊甚、一食就寝、枕衾穢汚、而為錦繍感、所謂渇而不擇飲者、此地為久留島候舊城、人家三百餘戸、今則山間一驛、旅客罕至、

廿六日 訪加藤仲太郎仲太、為中津學校同學友、別後既二十年、驚喜延座、然面貌非舊、昔紅顔美少-

【十-年、今則面貌老蒼。頭髪帯霜、纔知語音耳、此地同學者不少、問之、或死歿、或離散、其在郷者某々數名、寄語而辞、將賃腕車、舘主日、森町僅有七八輌耳、故不豫約之、則無有、乃歩發、途見故友井上某、日深瀬南渓有古梅樹、園數丈、枝幹蔽天、余奇其言、迂路過見之、樹蟠山谷、幹園三丈日、花香馥郁、薫數十町、収實不下二十石、村人甞將伐之、森藩儒官村上某惜之、以麥一斗五舛購得之、結廬樹下而住、某死、皈村保護之、余往年游那須野、僻村看梅樹丈餘、同遊南一郎平日、海内第一大梅、大和月瀬相模小向、皆梅樹-

【十九】-數萬、然未甞有如此大樹、謂之海内第一、亦何不可也、而余近郷有此梅、而始知、其為海内第一物之顯晦亦有命也、午至鹿倉、経前夜所艱之隧道、長七八十歩、南口有石橋、號之字橋、以曲逕類之命之、過橋忽入幽谷、為別乾坤、前日已晩匆々過去、及此毎接一佳處、駐杖停看、巖端石角、可観者、凡六十七、為瀧者十四、架橋者十二、一路沿渓、小澗支流不可勝數矣、為程二里、有此瀧、此橋、此渓、毎観異其趣、峭壁怪嵓、皆其書家●法、山中松最多、又如楓梨櫨、已紅葉、甚為壮観渓間石隙生大樹、高數丈、如不着根於地-

【二十】-者、余始疑其不為大風所倒葢此間岩峭壁立、圍繞重複、如列屏遮障風力、宜不為其所倒也、而岩罅雑樹、横生倒植、古雅幽邃、窮其奇絶、非復筆舌所能狀、余甞讀文人騒客之登富嶽記、想像其壯快、明治丙申仲夏、誘友人坂田實、登嶽而探其勝、愈登、愈奇、則記行所狀、不及十之一、如斯景、豈文字所能盡乎、每遇樵夫、問峯名、及岩號、日此間古來人跡不至、未有其名也、近鴫良有一大渓、水勢甚激、日品垂、新路開設之時、屢蹈測此渓、其景逈出深瀬之右、然至森町甚迂廻、余聞之、観奇之、僻復起、而欲往探之無道、竟-

【二十一】-絶望、晩達柿坂、舘主問深瀬之景趣、余日、絶奇、子言不誣也、山陽甞見柿坂之勝、驚而投筆、今余探深瀬之景、腰脱●落、舘主大笑、余日探耶馬之景者、至此誰不魄飛氣絶矣、中津新報記者、書之新耶馬渓、余謂新字未當、改為深、々幽深之義、稍當

廿七日 快晴、雇導者、登都々伎嶺山國川架大板一枚為橋、々下深潭、水色如藍、過之橋板掀擧、疾歩而過、導者日、前年有測量之者、深二十餘丈、投石水面吐泡、凡五分時、其深可知、潭之下流、兩山相逼、水勢迅激、為洑輪、激岩角聲如雷霆、過之為淵、川身入-

【二十二】-岩洞、流勢復急、行數十町、路漸峻嶮、羊腸而登、松柏隠蔽、不見𠿿景、宛如過隧道導者日、此奥有村、人家三十餘、稱樋口、有寺、日浄眞寺道、最為僻村、踰峻嶮得一渓、田圃植櫨、時見兎糞、如櫨實、導者日、兎害植物、毎年獵之不盡、自此都々伎嶺、排茅蹈巖、而登七八町、達嶺上、取望遠鏡回眺、宮園、中摩、藤本、守實、口林、多志田、戸原、平田、諸村、在咫尺間、遠而彦山、及豊前濱海、暸如掌紋、一一不可名狀、藤本有大石、平面二百餘丈、中摩瀑布、高數十丈、宮園有奇巖、爲橋狀、里俗名猿橋、皆爲耶馬渓之勝區、

【二十三】而探勝遊客、以山路峻嶮、至此者少、導者諳地理、指示數十里間之勝境、無一違漏、然嶺上寒甚、不能久居、取來路而歸則館主詢勝、如何、余日、耶馬之勝、峭抜奇峻、但余不偏遊諸國、難妄下評、然就所紀而見之、雖巴蜀、峨眉、龍門、廬山、諸勝、恐不出我耶馬之上也、

廿八日 陰、將發、主人請書、揮筆數紙、問宿費、日請以書充之、此間文人騒客、有爲書晝者不受宿費爲慣習、訪佐知兼次、夫妻懇請宿、以耶馬之遊多費日子去、抵中津、宿松風館、樓扁福澤先生千客萬來-

【二十四】-四字、俗言却見先生眞情、比之騒客漫然俗字、却有趣味矣、舘主爲福澤先生親戚、又余知人、余宿時不知之、相見大驚、主人日、豐州銕道開通以後、辭官開此館、比之齷齪下僚却優、余甚賞之、閑談及四更、將就枕、婢陳緞子枕席、詢其所以造之、主人日、●日岩崎彌之助君投宿、爾時所調、近時旅客一般好絹布衾枕、余聞之嘆息、奢侈弊風一至此、

廿九日 野依暦三來訪、歴三書店起産、爲此地屈指商家、余遊學於此、屢購書、以故相知、晩與商家七八名相謀、激飲余於忘言亭、亭搆三層樓、甚壯大、

【二十五】-爲中津城第一酒樓、膳食皆摸東京、非復昔日中津也、余酒量不過三蕉葉、客皆質問方今經濟上之近況、余舉所見答之、談論如學舎講議、婦侍酌者、欠伸日、如斯宴席、未曾有之、暦三日、近時宴會、盛饌堆盤絲竹満堂、吾聞君不好華美、因却之、然酌婦藝妓、來自浪華者、樓婦接客甚野、故使之代侍、此地藝妓以百數、酒宴必召侍、余在此己二十三四年、前唯有六七名妓而已、時勢變遷亦可知也、

卅日 三重惟長來、惟長立石藩宰臣、維新後官懸廳、今則養老於此、携至自性寺、見大雅堂圖書、己-

二十六】-抵寺老僧祝古希、以有客不見、寺原稱萬松寺延享年間、改自性寺中津候香花寺、爲臨濟派名刹、九霞寓此三年、従僧學禅、僧就九霞學書云、九霞居室今尚在、其室四壁襖屏皆九霞筆蹟、遒婉清雅、葢其得意之筆、抵金谷堤、高三丈餘、長數百歩、我遊學時所散策也、西仰八面山、東臨廣津諸村、爲中津城第一勝地、堤南一川稱古川、築堤時决本流於東北、故存古川之稱、汀沿多菡萏、仲夏過之、實爲壯觀、午後鈴木閑雲和田基太郎山口半七來訪、閑雲爲此間長者、齢巳垂古希、氣概不衰、壓倒壯者、爲余開宴於忘-

【二十七】-言亭、余請其談舊藩理財、閑雲喜説之、一坐傾聽、余得實學、裨益不少、

十一月一日 訪田原春塘春塘立石人、以爲業、晩年喪男女子六人、爲之憂欝、近時棄世事學畵、自遺、示其近作、筆力雄健、不似晩學、余請一二葉辭去、

二日 發中津立石、欲見椎谷瀑布、雨甚不果、驛舘河上流、瀑布有二、二十年前一遊、一日東椎谷、一日西椎谷、其東者三面俊壁、々頂松檜楓梅差生、巖腹浄潔如拭、直下四十丈餘、勢如奔馬、有風觸之、飛散如驟雨、如薄霧、萬變無極、潭亘六百歩、其深莫測、

二十八】近之則冷徹肌、盛夏思挟纊、西者爲惠良河上流、水量倍在東者、而高不及之、中間崖角突出、瀑觸之電撃、其聲殷然震里外、望之銀河倒瀉、懸巖壁、四面古樹環合、凄神寒骨,悄愴幽邃、以其境過清、不能久停、來觀者、魄褫神悸、極爲奇觀、此游不果、他日難期、實爲遺憾、

三日 胡麻鶴岩八來曰、今日天長節、開祝式於邑學校員學生及有志諸士皆參列焉、敢請賜臨、爲郷徒有所演說、乃徃、會列者三百四五十名、校長擧式禮、拜今上皇帝皇后兩陛下御影、樂人奏樂、學生謠

【二十九】君賀世之歌、參列者順次拜禮、交進讀祝文、述祝詞、已了、余進、演說教育大意塞責、校舍在舊城址、營搆堅牢、皆係有志者醵金、講堂旁室、列作文及裁縫物、頗有可賞者、近時教育普及可賀也、晩岩八、與綾部亮平三嶋三十郞阿部武左衞門、以下數十人邀饗余於谷舗、酒間語舊話今、馨歡而散、

四日 梅田胡麻鶴、諸子來、開碁會、

五日 霜色如雪、告別親故、半里至鳥越村拜綾部文盟先生墓、余少學山田先生、先生歿、學文盟先生三年、先生以醫爲業、通漢藉、能書畵、涉挿花、造庭、雜-

三十】-枝、爲人溫厚、敬讓接人、八十八歲而逝、遠近悼惜焉、訪孫亮平亮平屬祖父碑文、過金山村、々有舊金鑛二百年前出金云、行五里、抵杵築町、爲松平侯二万七千石舊城、舊名木付正德中松平豐後守重休封此、改作杵築建長中大友支族、木付肥後守親重所築云、市街據海濱岡阜、訪姻家莊野諸平、擧家欣然、出迎乃宿

六日 諸平修茶道、誹徊、皆得宗匠名、又好書畵、藏幅甚多、此日出示二百餘幅、皆古今有名大家筆蹟、余愛書畵、唯、以目憊神倦辭之、晩招渡邊小畑-

【三十一】-小酌、醉後爲諸子作書、錄近作、余詩書拙劣、書畢欲寸裂、被衆奪去、

七日 訪小畑某、示幅、竹田草坪石谷諸幅、皆難多得者、竹田岡人、石谷草坪杵築人、皆爲一世名手、

八日 訪前田利功、余唯知其以茶事有名、出示其畵、筆力清閑、秀麗足爲一家、又出示骨董數品、皆古代珍器、古硯唐宋物、尤爲名品、宅占舊城趾、北西竹樹澗谷、惜猶屬荒蕪地、訪故人十市王洋王洋以畵著、專做唐宋筆意、筆力猷健、禽樹草木人物無不爲、畵山水最秀、昨年病歿、家人出博覽會出品幅、一見-

三十二】-使人悲悼不勝情、致吊詞而去、一里抵森江港、投滊船大和丸、船中見一老僧、談話懇懃、問其姓名、現住鶴崎法眞寺阿部日厚法眞寺余郷延隆寺本山、故寺僧徃來相熟、日厚能詩、示近作、爲余揮數首、余詠和歌贈之、別室有一禪僧、爲八幡濱禾山老僧侍者、余知禾山、故一見如舊、不意船中得此談友、

九日 黎明、抵別府港、宿米屋、此地以溫泉有名、市街稠蜜、毎戶搆浴室、其便可知也、午後從一僮、謁朝見八幡宮、宮在朝見山麓大友能直所創、宮東有溫泉其色透明、最適胃病云、泉傍有圓、小憩、園主田邊-

【三十三】-肥後人、出見曰、甞辭某官、ト居此殆十年、近創設旅館、來客日夕不絕、邸中小舍數棟、或草葺、或瓦葺或小板葺、環屋植竹樹、引水爲池、池中有噴水、騰起丈餘、水尤清冽、日光下徹、視遊魚若乘空、又蓄龜數十尾於別池、時方接尾、雄追雌而馳、雌背雄而走、主人曰、龜自晩秋至孟春、必絕食焉、秋後絕食接尾、遂馳不擇水與陸、故設別池、園成自然之勝、頗有風致、爲一區佳境、

十日 遊濱脇溫泉、海渚有二浴塲、一號西湯、一號東湯、東湯者、帶黃靑色、稍透明、而臭氣甚、西湯者、暗-

三十四-黒如炭、然臭氣不甚、皆癒僂麻質斯、貧血、濕疹等、諸疾云、海汀皆發湯氣、余觀浴客、堀砂痿全軀、以代浴、躬親驗之、其快却優浴矣、皈途過楠湯、徃昔有大楠樹、以得名云、附近多妓樓、游客爲群、男女混浴不可媒近、過野田不老高札等、浴塲、清澄無臭氣、葢與海濱異泉源者、

十一日 遊觀海寺溫泉、自別府北西一里、山路崎嶇、旅舍九戶、皆依丘阜搆樓屋、每戶大樓、容數百人、其上朝見山聳起、溫泉自山腹巖罅湧出、引以開浴塲、泉色透明、湯底可辨纎芥、絕無惡臭、曰含多量炭-

【三十五】-酸性、内服有泌尿發汗之效云、小憩樓上、望豊後洋、洋左有大神岬、岬北有鹿鳴越嶺、嶺麓有日出城趾、城外小邱、松樹叢生、有村、有田、洋右高崎山屹然凌雲、楓松梅楠●槎●欝、山東有菡萏、濱多老松、松間有大分町、々南沃野數里、自是東、地勢開豁、山亦小縮、遂至佐賀關牛島、則眼界不及、繞丘有溪澗、清湍激石、憂然錯鳴、溪北爲石垣原、岩石突怒偃、半沒草棘、爭爲奇狀、原西湯嶽峻拔、巉巖累疊、實非筆墨所能狀、觀海寺北一里、有堀田溫泉、皈途迂道、過之見湯口、熱湯自岩罅噴出、硫黃氣衝鼻、不可久停、

三十六】其下鑿巖、設浴塲、治梅毒、濃疱疹、鉛汞中毒者、不勝醜穢、一見掩鼻而去、晩抵別府帆足、赤松、田邊等來訪、皆此地有志者、

十二日 和田善三郞、永田壯三來訪、善三此地警察署長壯三二十七年前、同塾于中津學校、酒間請書、我國鄙人、見貴客請書、不論巧拙、尊其人之意也、

十三日 此地三面負山、東擁海、溫泉湧出、比他郷甚暖三冬積雪甚稀、殆不知氷凍、從一僅遊銕輪、少憩一旅館、此地逆旅十五戶搆造壯大、然未改舊觀、甚粗陋、浴塲二所、其大如池、游客混浴春秋農隙、浴-

【三十七】-客徃々數千、漸次謀浴塲改良、旅舘更築、以招都會遊客爲最要矣、山路行十六七町、抵柴石、引山腹溫泉開浴塲、透明如鏡、又有懸爲瀑者、立浴注灑肩背、甚快、惜兩山窘束、搆屋無餘地、僅有三四小屋耳、出浴開瓢、獨酌醫渴、更行十町許、道傍有泉池、廣百餘坪、深不知幾百丈、泉色如朱、俗稱號血地獄、熱甚、不可下手、自是地勢開豁、又行十二三町、逹海汀、有聚落、曰御越、海濱所在、皆溫泉、毎戶設浴塲、里俗呼日豐後溫泉、一里半、經石垣原、歸別府、葢石垣原、皆燻原慶長中鶴見嶽噴火、山石突出海濱漁村、鑿井數-

三十八】-丈、徃々出陶器、噴火前物云、余明治十四年東遊、過猪苗代湖、大亘四里、大同二年噴火、地陷爲湖、埋沒十八村云箱根湖底、今猶多大樹、不可下網、稱神代杉、亦徃昔噴火所爲、火發之變、誠可恐矣、

十四日 早訪山田三郎、不在、途邂逅辛嶋虎之助、虎之助宇佐人、父祥平、以蠶糸業有名、與弟龍吾移此講蠶業、繼先志、誘諭邑民、謀其盛大、導余別墅、墅號日紅葉舘、南西對鶴見高崎二山、霜樹紅葉、尤爲佳聘、因有此名、紅葉舘扁額、伊藤春畝侯所書、今春漫遊此地、眺望四達、葢此地第一佳景、龍吾踵來、

【三十九】語今昔、情頗懇、請余記、約他日而去、午發過高崎麓、三里抵大分町、投堀川街水野氏大分舊爲古國府之地、大友氏累世城于此、後早川長敏、福原直高、亦城于此、維新後置縣廳、比屋鱗次、商賈輻湊、極爲繁富、港名菡萏日向、四國、中國者、皆自此登船、物産出米、近來靑莚業盛開、輸出海外、價額達百萬圓云、夜宮村三多小烟小吉來、皆縣會常置員

十五日 訪後藤直彦、渡邊芳一、渡邊郁次郞、皆同學友、夜津田純一、下村御鍬、三宅大三郞來、純一中津、爲中學校長御鍬宇佐人、爲漢學教授大三郞-

四十-東京人、陸軍大尉、休職在家、爲體操教授、皆不好飮、飯後圍碁、深更會散、

十六日 豐州新聞社員長野松太郞大分毎日社員前田多三郞來訪、話地方情况、食後雇車、詣柚原八幡宮、宮在柚原山頂天長七年營築、天台宗信剛藏院全龜所開基、以二八月、行祭、遠近賽者爲群、石確傍有喬楠、周圍二十餘尋、中央呀然爲洞、入而驗之、徑二十四尺、其大可驚、葢千有餘年物也、房州鹿納山麓、有大楠、世呼日日本第一大樹、事見馬琴八犬傳、余甞徃見之、其大未知與此樹優劣如何、午後-

【四十一】-中學校校長余、縱覽校內、近時所建設、學生三百餘、距市十町南一丘、大友氏城址、東南帶大分川海部直入群山聳起環立、北西擁市街、隔街豊後灘舟●往來日夕不絕、眺望絕佳、空氣清潔、最適校舎、距校南數百步、道傍岩壁刻佛像。大者丈餘、按豊後史韓人日羅所刻、日羅奈良朝時入朝、事見史傳葢爲當時之物、惜漊漫無完全者矣、夜與下村會、飮津田氏、宴終圍碁、及四更、所謂下手妄好、眞爲可唉、

十七日 內田孝太郞來訪、發大分三里、抵戶次、山間一市街、民戶殷富、徃昔過臼杵佐伯者、皆取路于-

四十二】-此、近時滊船一開、徃來者皆取海路、故非昔日之盛云、訪帆足助作、助作業釀酒、爲縣下豪商、以書畵骨董有名、喜余訪問、延坐饗飯、意頗懇、二里抵芳野村、見天滿社臥龍梅、老樹數株、枝埀到地、就地蟠根更植繁茂、實爲奇樹、周圍環垣、有孝女傳、碑文旭嶂毛利晩敬先生所撰、晩抵犬飼宿、在大野川上流、舊幕時、國主中川矦、覲江戶、自此登舟、五里出鶴崎港、乘海船、徃時有假殿、代官邸、倉庫等、亦山中一市街也、

十八日 寒甚、霜色如雪、早發經原田瓜坂、四里抵岩戶憩小店、姥給粟飯、此地水田甚稀、以麥粟爲常--

【四十三】-食、產烟草椎葺麻乾柿、輸四方以自給云、行十五町許、見沈堕瀑、高五十尺、巾四百尺、大水激岩石、水煙飛散爲雲霧、日光返射之、現虹霓、洵爲奇觀、相距五六十歩、有一瀑、高六七十尺、掛谿間木末、自高直射、潭傍仰視、踈然快然、然水勢稍弱、遠不及沈墮之觀、俗稱之女瀑、稱沈墮男瀑、葢別其大小也、路傍休一農家、主人曰、春夏洪水之際、極爲壯觀、今也晩秋、水涸石出、不足賞也、自此曠原、曰中瀨原、數十町間不見耕地、時見群牛逐原草、豊後東南山間、產牛、毎戶大抵養四五頭、多者養十四五頭、然●舊不謀改良、

四十四】-故小弱而體形甚●、晩抵岡町宿、此日行山路十餘里、腕車不通、雇一僕、擔行李徒步、僕病脚、乃自荷行李助僕、困甚、

十九日 出視市街、戶數千餘、家屋搆造甚整、舊時岡藩、待他國人以恩、故市民多係移住者云、見城址、在山頂、西北南三面、斷崖巨壁、東一面通市、稍平夷周圍環河、甚急流、四塞險要、可謂天然城郭矣、文治中緒方惟榮、始爲堡、後大友能直第八子能郷、修堡、廣大之、稱岡城、世居此.天正中豊薩之後、大友氏敗績、棄城而去、文祿二年中川修理大夫、從播州三木-

【四十五】-封于此、子孫世襲、至維新、明治十年西南之役、薩黨據此搆兵、舊藩士多應之、官軍苦戰累日、薩黨彈丸盡、走且降、乃守安以險城之故也。過田能村竹田墓、在市南丘上、竹田世業醫、畵名震一世、葢爲我國南宗泰斗矣、郷人幕其德、祠里社云、又抵伴丈祠、伴丈以木匠有名、今時諸工所用規矩、丈之所發明、故俗間有伴丈尺之稱、郷人尊祠、亦有以也、自此山行三里、過菅生、地勢愈高、望直入大野諸山、爽氣滿天、烟雲時起脚下里許憩笹倉村店、食蕎麥、此間人煙稀、眼界數十里、皆原野、道傍村家、夏季產蕎麥黍豆-


四十六】-類、春種菜蔬蕎麥及黍、爲常食、菜蔬賣之市、以貿鹽油云、過坂梨峠、曰並野原、地質艘沃、滿目茅薄、高丈餘、而不見耕地、若拓墾之、必見其利矣、自峠南、腕車不通、徒步二十町許、抵坂梨驛、自是肥後阿蘇郷阿蘇郷、在山間、東西三里、南北七里、平坦如砥、地味豐沃、田圃相半徃昔號七萬石、民俗質朴、有大古之風矣、晩抵宮地宿、海魚味美、余問產地、來自臼杵鶴崎南豐海濱、距此二十里、山路崎嶇、行通不便、而不變味、可異也、

廿日 晨浴冷水、謁阿蘇神社、氣象肅穆、木材皆用-

【四十七】-檜木、不涉華飾、專主純朴、葢我國徃古宮殿築造之制也、大樹環植、境域欝蒼、境門外、則市街、人家三百餘、皆仰神社而食者、雇導者、登阿蘇山、見噴火口、發宮地一里餘、過菩提寺、自是山路、多曠原、艸蒙燒灰矮生、取杖揮拂、則灰蘆如烟、導者日、東風之日、燒灰眩目、不能登、今日幸西風、無此困、午抵本社、支坊有觀音堂、堂左有明神社、休社傍小屋、茅圍四面、以代牆壁、僅凌兩露、更登十町、達山頂、此間不復生艸木、全地皆燒石、所々積石、爲路標、以便登山者、頂上數十町、四面漠乎、沙原如海濱、沙土每步沒踵、行二百-

四十八】-歩、抵噴火口、臨瞰深數百仭、南北二百間、東西數千間、斷巖絕壁、不可攀、接西北岩穴、黑烟噴騰、達數千尋畑中見火光有時飛石聲震山谷如聞雷鳴、倏忽黑烟〓涌不辨咫尺、無幾飛散復舊、其候忽變好、無一定時刻、余欲逼視之、導者日、見墳口、近年間事、徃昔山常鳴動、發火無常、登山者甚爲寥々、下山則買酒祝無事、近年不知噴火可畏、登山者年數百人、噴火異變不可測知、恐有性命之虞、勤速下山、取道東南、行二十町許有平原、稱千里野、東自田日山、西至杵嶋嶺、平面數千町歩、則如成於人工者矣、過此東-

【四十九】-西、望見遠山於雲烟之際、大快心目、下●路里許、抵湯谷村、熱湯自岩罅噴出、蓄爲一大池、流爲溪間、數十町間皆硫黃氣、傍有三戶泉舘、病瘡者群浴、汚穢特甚、小憩逆旅、媼曰、徃昔湯口在西山岩罅、二十年前、一日忽變、生東山崖下、湯量亦自此一倍、距浴塲十四五步、有山邱、全邱噴火、吐黑烟、樹木皆枯死、亦近時之變也、自湯谷行四五町、有一旅舘、就而宿、有三浴塲、皆異其質、其効亦異云、

廿一日 曉發、殘月在山、過長岡高壟二里餘、抵立野、是爲自熊本阿蘇之道、小憩道傍民舍、時驚風-

五十】-雨大作、居民云、瀑布也、乃徃觀之、双瀑觸懸崖、注絕壁層崖、相承數百級、右爲須賀里、左白糸瀑須賀里發源扇鼻山、經內牧、過狩野、至此、合阿蘇川白糸起源湯谷、合諸溪澗之水、奔流頗爲壯觀、自立野乘馬車三里、抵大津驛熊本城東北一都會、四望豁然、與山漸遠、自立野至此、道路石多、馬車●兀、乃棄馬車就腕車五里、晩達熊本、宿洗馬街、發大分數日間、不見新報、命婢購見、始知神戶市黑痣病流行、京坂人傳染、嚴修豫防法、聞此病害毒劇甚、余歸思頓動、

廿二日 市南小山、號花岡、腕車徃觀、有觀音堂、自-

【五十一】-是山嶮不通車、步而登、半腹稍平、望市街頗快、距城址僅六七百間、十年之役、薩兵據此、砲擊城兵、城兵甚艱、種田少將以下死於神風黨者、墳墓累々、行數町、過法華坂、有武官會集所、日偕行社、傍有佐賀臺灣覺島四役戰死者之碑、髙丈餘、記戰死者名數千、又有熊本縣人死難之碑、係有栖川熾仁親王篆額、中將谷干城撰文、工部卿山田顯義書、維新以來諸縣誤大義、或黨賊而仆、或殉義而死、獨熊本縣、兩黨交起、暴骨原野者最多矣、自法華坂西行數十町、謁加藤清正廟、廟前有拜殿、左右老松環圍、風致可掲、

五十二】境東有廟碑、文化中府學訓導大城允所撰、然苔蝕不可讀、又有朝鮮人金官墓清正征韓時爲導者云、出門寺院挾路、皆隷廟者、茶亭列宇、婢爭呼客、乞丐尾客可厭、不憩而去、過城址、十年之役樓櫓殿閣盡罹兵火、尙存一重閣爾、壘壁之搆、溝塹之設、今猶完備、城據天然形勝之地、而營搆之、規摸壯大、備禦周到、眞可驚人目也、午後欲觀出水神社、聞社地舊爲藩侯燕遊之地、藩人就而祀細川氏祖先墳、社境爲公園、道過白川板橋、名安己橋十年之役、官軍自日奈久而上陸、先畧八代地、北進狭川與賊兵決戦、遂-

【五十三】-通城兵、故當時稱爲安已之决戰、即是也、行十町許、有松林、即出水神社、入門清泉爲池、廣袤數町、群魚游泳、奇石錯峙、過石橋有神社、棟宇峻起、此祠細川氏祖先者、葢全境風致據湧泉而布置、松林中有旗亭、小憩、饍味川魚、不用海魚、來遊者陸續、皈路巡視市街、兵火後、區畵道路、改革市坊、分人道與車路、左右植樹木、以爲火防、大體仿西洋都會之摸形云、

廿三日 霜華如雪、寒甚、駕滊車十里、經宇土、一客日、宇土山中多貝殻、土民燒之製石灰、以供肥料、一異聞也、自宇土八代七里、海滋起堤防潮、以開田-

五十四】-疇、或曰、加藤清正所計畵、午抵八代、九州鐵道限于此、下車視城址、荒廢僅存壘形耳、有八代神社、祀懷良親王、係維新以後之事、親王爲後醍醐帝之皇子菊池武重奉之、與少貳賴尙夾筑後河、交戰、親王重創而薨、城爲小西行長所築、清正甥加藤馬之助修理、以鎭熊本南方、舊幕賜加藤領地細川氏細川氏使重臣長岡氏守之熊本封內爲咽喉之地矣、十年之役、薩兵遂棄熊本而走、以官軍首取此地也、市街人家三千、邸宅植橙橘、頗繁茂、植寒竹以代垣、甚有風致、晩皈熊本肥後地勢平西循海岸、北隣筑前沃-

【五十五】-野、東南疆豐日、南北三十里、東西十餘里、盡皆原野、地味腹饒、百穀無不產、最適禾穀、田陌四開、民皆殷富、古來鎭西有事、熊本必當其衝、十年之役亦然、葢以地理當要衝之故也、

廿四日 滊車發熊本、過植木、地勢漸窘迫、多高壟、十年之役、激戰之地、襲東二十町、有田原坂、兩軍對壘、砲戰六十餘日、彈丸雨飛、樹木皆禿、山皆兀然、今尙存其遺蹟、當時之慘可想也、夫爲官軍、爲賊軍、親友死于此者多、幽魂無依、其誰弔之、東拜合掌而過、至長洲驛、鐵道循海濱、隔海望溫泉嶽、聳于雲間、黑-

五十六】-烟焦天、乘客皆拍手、呼快、達大牟田、地勢復廣延、見烟筩突立、日三池煤礦、三池爲九州第一炭鑛、近時皈三井氏有、採掘歲額數千萬●、輸出海外、我國起礦業、僅々廿年、以肥前高島、爲篙矢、今也跨筑豐、豪估大商從事此業、遂成一國巨產也、洋人某日、歐米諸國開明、全有鐵與煤耳、葢自人智發達、利用煤鐵益多、如鐵道及造船其尤者、近作橋梁及家屋、而製鐵不可無煤、有煤而始享鐵之需用、有鐵而始資邦之殷富焉、兩者欠一則不可也、顧我國奧羽諸州、在所有鐵山、唯未有製造之法耳、向後以九州之煤至-

 【五十七】-製奥羽之鐵、其●益愈可大興也、午抵鳥栖、下車小憩茶亭、此間人烟隔絕、山中孤村、茶亭皆鐵道布設以來所創設、自熊本長崎、自長崎熊本福岡者、至此下車、乘別車、三線聯絡於此、故乘客輻湊、爲一市街、發鳥栖、過佐賀、見烟筩突兀、亦煤礦也、乘客中有數名藝妓、車中屬目、抵北方下去、客曰、是亦稼煤礦者、衆皆哄然、俗稱勞働爲稼、經川棚、迂廻行浦激數十里、或沿汀、或循山、奇觀可喜、然屈曲傾斜、進行遲緩、至大村、夕陽春海、飢甚、傾所携取火酒、傍客有美色、仍觴之、大悅日、始蘇生、是亦逼飢●者、八點-

五十八-鐘、達長崎、宿外裏街福嶋樓

廿五日 訪莊田平五郞、不在、平五郞三菱商社造船所長、余聞、此地造船所、營搆壯盛、器械完備、爲海內第一、欲徃觀、不果、抵福濟寺、寺占山腹、下臨港灣棟宇堅牢、扁額皆明清人筆蹟、與奈良西京古刹、異其趣、支那名刹却不如我邦之盛、聞支那佛法衰廢寺刹亦無足觀也、午後觀外人居留地、途見清人葬式、建白黃赤旗數十、書音容宛在碩德流芳等之字、皆其親戚故友、頌其功德、所贈也、旗前後、有樂隊、奏洋式、一奏清式、繼樂隊以僧、繼僧以柩、繼柩以送-

【五十九】-者、皆着素衣、非佛葬、非儒葬、又非洋葬、葢一種混成俗式矣、或日、清人費巨資於葬式、非我國之比、是亦清國弊風矣、長崎三面皆幾々峻嶺、灣口曲折、地形甚狭小、無平地、萬戶搆居宅於丘岡、無復尺寸空地、道路布石、兩側水道、家設鐵管、分用水、潔潔可悅、聞維新後、一時衰頽、無以營生計、臺灣之役、海陸二軍屯此、頓致繁榮、近時鐵道開通、景光倍舊、如地價、俄增十數倍云、

廿六日 遊郭、曰丸山花月樓鶴枕、爲世所艷稱、徃觀、以樓主不在辭、某日、花月樓妓樓、子不買妓、故不-

六十】-許觀、余甞一見、以竹造之、意匠雖奇不足賞也、遊客弄爲現具耳、樓始得之昌至今日、故樓主寶視之、

廿七日 寺見喜一、與新報記者一來、喜一郵船會社員、管浦鹽斯德港支店、港冬季氷結、不容船、航皈、至明年四月氷解之期、赴任例云、

廿八日 滊車曉發、晩抵筑前福岡宿

廿九日 出視市街、比家新建、街衞整然、景光非復昔日之比、葢煤業盛興之所致、訪友人鈴木千卷千卷明治生命保險會社九州支店長、住此有年、頗通時情、日、近年煤業勃興、諸國人輻輳、或爲逆旅、或-

【六十一】-爲酒樓、極其盛昌、然煤價下落、市街諸商生計窘窮、與外觀大異、余謂煤價下落源因、在供給者過需用、今也設採煤業組合方法、制之亂掘、以不使煤價下落、爲第一急務、否則礦山隨荒、地下數千尺煤層亦歸湮沒、煤業興廢係工業之盛衰、不可一日緩之矣

卅日 滊車抵門司、小憩、買船渡德山山陽鐵道、抵廣嶋宿

卅一日 黎明、滊車過岡山神戸、各驛醫員一々撿査黑痣病、規則甚嚴、直行兼夜、抵東京、家族迎門、孩兒嬉笑、此遊已亘於若干日、

六十二】明治卅四年六月記

【六十三】寫情寫景、入畵入化、山水險奥、文境古奇、讀是文者、如歴其地、其米老之山水圖乎其莊老之奇幻筆乎、令人不能●其妙、古有作者、必推斯品

  後學 馬鸞聲拜讀

伊東茂右衛門 (竹山) 著『間行録』 発行:多田三弥 明治37年(1904)2月

六十四】余往歳、序伊東竹山君北海紀行概叙其爲人今讀此稿、記山水勝地甚爲詳悉、使人如目睹足踏、尤注目經濟事業、與他人紀行、適異其趣、此君之所以特起興家也、讀者莫以尋常游紀視之、

 癸夘三月一日

  八十二翁梅山川北顒妄評

【六十五】明治三十七年二月十日印刷 同二月二十四日發行 定價会貳拾錢

東京府豊多摩郡西大久保四百三十八番地 著述者 伊東茂右衛門

東京市麹町區内幸町一丁目五番地 發行兼印刷者 多田三彌

東京市麹町區内幸町一丁目五番地 印刷所 惠愛堂

東京日本橋區通三丁目 賣捌所 丸善書店